エレナはふと立ち止まり、耳を澄ませた。
鳥の声に紛れて何かが枝を払う音がする。苔むす大地をゆっくりと踏みしめる気配──
沈黙の底に、ひたりと落ちていく……
「リノア……感じた?」
「うん。息を潜めて、こっちを見てる」
そう言って、リノアは周囲を見渡した。
その眼差しは、まだ見ぬ何かを捉えようとするかのように冴えわたり、怯えはどこにもなかった。そこにあるのは淡々と気配の輪郭を見極めようとする静謐な集中──深く、澄んだ探知のまなざしだった。
リノアの瞳は、木々の影と光が交差するその先へ向けられたまま動かない。耳をすませ、空気の重さと気流の変化に意識を向けている。
言葉ではなく、それを全身で感じ取ろうとするその姿にエレナは思わず息を呑んだ。今、本当に目には見えない何かと対話している──そう思わせるほどに。
リノアとエレナは互いに顔を見合わせて、何も言わずに頷くと、音の余韻をなぞるように森の奥へ向かって行った。
枝葉の擦れる音が風に紛れこむたび、空気が冷たさを増していく。まるで世界の温度が一滴ずつ失われていくかのように。
踏みしめる足音さえ、森が息をひそめて聴き入っているかのようだった。
光と影の狭間には形なき何かが確かに息づいている。その気配が二人をそっと導いていく。
気づけば空気の色までもが、いつしか変わっていた。
──森の色が変わっている。
境界だ──リノアは直感した。
先ほどまで陽光が届いていたはずの場所が、いつの間にか薄暗くなり、色と輪郭が曖昧になっている。
世界の表と裏が交わる、そのあわい──
「進まなきゃ……」
エレナが誰に言うでもなく、ぽつりと言葉をこぼした。
それはエレナ自身の胸の奥に向けられた、小さな決意の灯火だった。
不安は確かにある。
目に見えないものへの恐れ、そして、まだ正面から向き合えていない一つの事実への痛み。
最愛の人、シオンの不在だ──
記憶の中のシオンが鮮明であればあるほど、その喪失は重く、エレナの心を冷やした。
その喪失は森の奥に漂う気配と同じように姿を見ることはできない。しかし確かにそこに存在するのだ。
エレナは呼吸を整えると、ほんの少しだけ前に歩み出た。
この森のように、過去の記憶と感情の“あわい”に踏み込まなければ、もう二度と、自分自身の輪郭さえ取り戻せない気がする。
たとえ答え